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はじめに

物心ついた時から、周囲の「当たり前」に馴染めず、自分の居場所をずっと探していた。

コミュニケーションが苦手で、モノ作りが好き。​考えを押し付けられるのが耐えられなくて、集団行動ができない。

そんな人間が様々な出会いと経験を経て、芋けんぴとおにぎりを提供するお店を始めた。

目の前の人が喜んでもらえるおいしいものを作り、資本主義の社会に馴染めるようお店らしくあろうとした。テレビや雑誌に取り上げてもらえ一時的に客足は伸びた。

しかしストレスばかりが増える日々になってしまった。

お店を辞め、農業の仕事に就いた。

でも続かなかった。

まったくもってやっかいな人間だ。

こいつに居場所はあるのか?こんな人間でも楽しく生きられる道はあるのか?

そこで二つの言葉に出会った。

ひとつは『発達障害』

この言葉を知って思ったのは、正常な人なんていないということ。

いろんな分類があるが、明確な線引きはなく、人それぞれ複数の特性を、強弱も違う、年齢や環境によっても表れる。グラデーション、スペクトラム、グレーゾーン。

型通りの人間なんていない。

もうひとつは『自然栽培』

​農業には「慣行栽培」「有機栽培」などの分類があるが、「自然栽培」は自然の力を信じて作物を育てる農法。

自然の力を活かすとは、土壌中の微生物の活動や、野菜自体の生態や活力、虫や草など周りの環境の共生や循環の仕組みを、人間が支えるということ。

自然界は調和のとれた美しい世界にみえる。

ではその自然の仕組みはどうなってるかというと、実は科学的に解明されているのはごく一部で、複雑さ、多様性の上に成り立っている。

なんだかわからないけど、いることに意味がある。そういう曖昧さを許容している。

二つの言葉から『にじみ』というキーワードがみえてきた。

​境界線は確かにあるけれど、そこになにを視るかはその人の自由。

にじみでるなにかを楽しもう

2025.9月 加藤晶夫

『にじみ』とは?

​歴史や積み重ね、想いや信念、つながりや信頼。

目に見えない、言葉に表しきれないなにか。

そんなものが確かにある。

見えないけど、視ようとすれば視えてくる。

​人や物、仕事や文章、あらゆるものからにじみでる。

あるCMでやっていたけど、二人の人がいて、どちらも『鈴木さん』で『メガネ』かけてて『営業職』で『ラーメンが好物』だったとする。でも違う人間なんです。

当たり前ではあるんだけど、さらに『同じ歳』『同じ場所の生まれ』であっても違うのです。その鈴木さんの育った環境、これまでになにを経験したか、なにを決断して、どんな人に出会ってきたのか。違いを生む要素は数限りない。

全く同じものなんて一つとしてない。

それでも人は、共通項を探して分類したがるし、対立軸を探して比べたがる。

別に悪いことじゃない。そのおかげで新しい発見や、理解が深まることもある。

しかしその視点ばかりでみていると、それに縛られてはないだろうか。

 

メガネをかけてる人は真面目で、かけてない人はそうじゃないのか。

ラーメン好きは​気取らず行動的で、蕎麦好きは大人っぽく落ち着いているのか。

きっとそれだけじゃないのがわかるだろう。

ほら、だんだん『にじみ』がみえてきたんじゃない?

忘れがちなだけで、にじみをみる視点はだれにでもある。

にじみでるものが、おもしろい。

社会の先行きが見えなくなってきて、合理的な判断はAIの方が優れていく時代。

​にじみでるものが、人が楽しく生きていくには必要なんじゃないかな。

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